昭和52年03月16日 春季総会
※10年祭のお年柄。
※最初、秋永友良信徒会長が話される。続いて初代親先生。
ただ今、ご神意とか、ご神愛とかと申しますけれども、なかなかそのご神意の把握がでけず、ご神愛をご神愛と、悟れず分からないところに、お礼を申し上げねばならないことにも、お礼も申し上げず、ご神意であることが分からないために、不足を言うたり思うたりいたします。
それを一つ一つの体験の中から、愈々確信に満ちた、確信を持った、神様のお心を分からしてもろうて、それに愈々沿い奉らなければ、ご神意もご神愛もない事になります。分かっただけでは出来ません。この度あの丁度十三日会の、朝から大変体に異常を感じまして、とうとう十三日会も、ちょっとここに出らして頂いただけでご無礼して、そのまま休ましてもろうて、丁度昨日まで、大変なきつい修行をさせて頂きました。
そしてあの、いよいよ分からして頂くこと、十三日会と言えば、合楽で一番大事なご神願ご成就の日だと言われ、または定められて、もう長年この十三日会がだんだん盛会にならせて頂いております。合楽の信者であり、信奉者である者は、まずなら十三日会の意義をご承知でない方はありませんように、十三日会という会には、神様のご神意があることを皆がご承知の通り。
そういうんなら、神愛、まあ成就すると言われる日に教会長の私が具合いが悪くて、十三日会の日も出られないというのは、どう言う様なことだろうかと、私自身も思いました。これはよくよく、またご無礼がでけてるんだろうかと。けれどもおかげを頂いて今日この総会を皆さんと共におかげを頂きましてから、いよいよご神意の深さ、ご神愛の深さに、ただただ、もう恐れ入るばかりでございます。本当にもし私が今度病気を致しませんでしたら、どういうことになっておっただろうか。
もう、それこそ合楽理念の確立、これを絶対のものとして皆さんにも聞いてもらい、私もそれ確信して、まぁまいっております。それがもちろん絶対のものであり、間違いのないものですけれども、それをいよいよ、より絶対のもの、より間違いのないものとして、皆さんが再認識をして下さる。私も再認識をさせて頂いて、いよいよ確立する、合楽理念の確立を人にも伝えていくことが出ける。
そのことを思わせて頂きますのに、本当にに神様は、それこそ石橋を叩いて渡るように、真実にこの合楽理念の確立ということに、神様が重きを置いておられるかということを、改めて感じさせて頂きます。今朝から私が頂きましたお夢を、今朝のご理解にも皆さん聞いて頂きましたが、ただ知っておるとか分かっておる、またはおかげを受けておるというだけではなくて、これをもう一つ、確かなものにしていくためには、これは私自身の信心がもう一つ確かなものにならなければならない。
今日お夢の中に頂きます、その前後のことから、内容から思えば思うほどご神意の深さを感じます。私がと思われる、あれは名前を忘れましたけれども、黒人の人であの霊歌を歌う、大変世界的に有名な歌手がおります。その歌手がこう、浄瑠璃語りさんが着ます裃袴を、そして見台の前で浄瑠璃を語ります。横に座って三味線を弾いておる人が、また、それは私のようでもある、また違うようにもあり、しかもこちらは黒人ですけども、こちらは日本人ですから、そのわざわざ、その黒人のようにメイキャップして、そしてやっぱ裃着けて、その太棹を握って、その弾いておられる。
もう声は今も申しますように、もうそれこそボリュームのある素晴らしいその声なんですね。その黒人の。それが、その日本語で、いわば浄瑠璃を歌ってる。それがなんじゃ、浄瑠璃が何かというと、「酒屋の段」です。「三勝半七酒屋の段」というのがございます、女舞人て言うですかね。その酒屋の段のもう、その語り口の素晴らしいこと素晴らしいこと。私は酒屋の段の、呂昇のを聞いたことがございますけれども。
それはもうとても、そりゃ何とも言えん味わいのある、もうこの特に酒屋が十八番でしたが、もう私が今日、お夢の中に頂くのはもう、本当に神技と言うより他にないほど素晴らしい声と、その、調子というですかね。その語り口というものが、もう何とも言えん、その、語り口でした。それでもその、やはり黒人ですから、ちょっと言葉にそのおかしいところがあって、そのまっ節回しのちょっと出けないところは、その横の相方弾きさんがそれにちょっと声を添えてやった。
その相方の三味線も素晴らしい、又はそれより、あの連れてやっておるのはなお素晴らしい。その語っておる人は、今も申しますように、もうこんな素晴らしい、その声があるだろうかという声で、その素晴らしい語り口で酒屋の段を語っておるというお知らせでした。もうそれから思わせて頂いて「酒屋の段」というのは、これは「有り難き、勿体無き、畏れれ多き」と言われる、言うなら合楽が、言うならば酒屋である。
「有り難き、勿体無き」を作ったり、そしてそれを卸しにしたり、小売にしたりという、いわば場である。「黒人」というのは、いわば「苦労人」ということでもあろうし、または、「腹が黒い」ということにもなりましょう。だからそれは私のようでもあり、でないようにもあり、こちらは私のようでもあり、「はあ、この方が教祖様でもあろうか」というような感じのタイプのね、その相方弾きさんでした。ですからなるほど私も、まぁ一角の苦労人と神様は認めておって下さる。
私の修行も、やはり認めておって下さる。同時に私の声色も神様はやっぱり知ってござる。それでその(むらかたちが)おかしい所は、こちらが言うなら、まっリードして下さる。そのまた相方も素晴らしいそのリズムに乗って、その酒屋の段を語って、終わったところで目が覚めた。そして初めて、また改めて分からして頂いたことですけれども、本当にこの3日間の病気、しかも十三日の日に、そういうご神願が成就すると言われるのに、ということは、いよいよ合楽理念の成就ということを目指されるのです。
そしてなら私もです、んなら相方がもし、その付いて下さらなかったり、声を添えて下さらなかったら、まだ節回しがおかしいところもある。ただ、声だけは立つけれども、まだ難しい、いわば浄瑠璃を語りこなすということは出けない。そのリズムに乗っての、その調子に乗っての、いわば酒屋の段である。そこを思わせて頂く時にです、これはいよいよ、私はもう一遍、それこそいろはのいの字から、一つ合楽理念に改めて取り組ませて頂いて、いよいよそれを、いよいよ絶対なもの。
しかも二度ざらいをする。そして一遍、たとえば「そりゃあ、あんた符がよかったい」といったようなものではなくて、このようにも間違いがない、このようにも絶対のものであるということを確かめさせて頂いて、そして、合楽理念の行者が、教団の中にもたくさん増えて、しかも楽しゅう、それこそ嬉しゅう、好きな例えば浄瑠璃をけいこする方達がね、それこそ寝食を忘れることも、また苦しいことではないほどしの素晴らしいものに仕上げていかなければならない。
金光教の言うならば、大成を目指さなければならない。してまた進まなければならない。そういうものを私は今日感じました。3日間休ませて頂いておることの、お粗末ご無礼であったことをお詫びさせて頂いておりましたら、丁度雨傘のこの傘が取れてね「傘」は「安心」とこう言われますが、傘が取れて、この柄だけになっておるのを、こう玉串を捧げるような形で傘の柄をこう持っておるところを、今日ご心眼に頂きまして、はあ、ここ辺のところが信心の一番大事なところだな、と改めて思わして頂いて。
今朝も聞いて頂きました通りに、私どもが本当に、今日たとえば皆さんの一人ひとりのお話を頂いて、もう皆さんが本当に、まぁそれこそ、まっこれは神様というほうが本当でしょうけれども、ここではなら私の痒いところに手の届くような思い方を皆さんがなさっておられるのに驚きました、感心しました、本当に感動でした。3人の方達のお話も素晴らしかったが、一人ひとりの方の祈願表明は、まぁそのように思いをかけておってくださる、それを今日の総会をきっかけに出すことができられた。
はぁ今日は本当に全員の方に発表してもらいたかった。時間が足りなかったから、と私は思うくらいでしたが。そういう例えば素晴らしいものが合楽では育ってきておる。それで、それが本当なもの、また自分のもの。言うならば、今日文男先生が申しておりました、貧争病のない世界ということは、貧乏が無くなるということではない病気が無くなるということではない、争いが無くなるということではない。その例えば貧なら、争なら病ならがね、全部自分の信心の血肉に成していくことなんだということ。
ならそれはもう病気ではなくて神愛だということになるのである。 私の3日間の例えば病気もです、どういうわけに十三日会に、私が席におれなかったほどしに体が悪かったか。今、聞いて頂いたような、大変なことを改めて実感的に分からして下さる。もうどちらかというと、私が大変思い上がりが強い、もういつの場合でも、「絶対、絶対」的なことを乱発いたしますので、思うんですけどもね。
それが嘘ではないのですけれども、それをいよいよ確実なものに私自身がさせて頂こう、私がそういう一念のあの第一歩から、この合楽理念にもう一遍取り組ませて頂いて、そして、このようにもやっぱり間違いがなかったんだということを、私が分かるということは、皆さんが今日発表された方々よりも、もう一段、もっと確信に満ちた表明も、例えば末永先生が、もう本当に確信を持って、今度の10年祭には、せめて10名ぐらいな信者を引き連れてお礼参拝がしたい。
とても夢のような話です、とてもブラジルに送る人達は、もう一生これでお会いが出来んかも知れませんよというのが、大体ブラジル辺りに行く人達との、もう、あの、別れはそういうぐらいにあるのですけれどもね、先生は決してそんな所とは思っていないです。もう、どこにおっても神様の懐なのだと。そしてんなら、記念祭に自分が半年前に行ったばっかりだから、今度だけはご無礼しとこうちいうなことではないんだ。
願えば神様が下さるんだという、ひとつ確信を持って皆の前にも公表ができるというほどしのことなんだ。そういう確信に満ちたものがです、皆さんの言葉からでも態度からでも、もし出けてまいりますならばです、それこそ合楽理念の確立であり、それこそ合楽理念がこのようにも素晴らしいもんだということを、銘々が体験することの出けれるおかげになってくるのです。貧もよし又は病気もよし。それは一切が病気という名の神愛だとお互いが悟れた時に、もう既に貧争病はないということになってくるのです。
それを例えば記念祭は信者氏子のために記念祭はあるんだと、神様は教えて下さったんですけれどもね。そういう、例えば自分の信心を改めて確かなものにしていくことのために、私どもがこれからの例えば半年間なら半年間の信心修行に打ち込ませて頂く。それは、皆、打ち込ませて頂いた銘々の人のものなんです。清さんが発表をしておられましたようにね、本当に天地日月の心とは、本当に成り行きをいよいよ大事に受けれる心をもって、大きな受け物だ、と。
小さい受け物は、もうかなぐり捨ててね、そして偉大な受け物を作る。それは言葉を換えると、天地日月の心であり、成り行きを黙って受けれれるほどしの、大きな受け物を作ろうと、お話の中に出てまいりますようね。そういうおかげを頂くためにもです、今言う、神様の絶対愛と申しますか、神愛、ご神慮であるということを、もうことある毎に、確かに自分のものにしていくおかげを頂いて、その内容を頂いて、初めて受け物が出けてくるのです。
そしてそれを真の信心、いわゆる「信心の真を現す」と言われてある。「信心の真を現す」と言う事はね、私共が言うならばそういう貧争病のない世界に住むと言う事。なら貧争病のない世界というものは、先ずはあり得ないだろう。貧もあるだろう争もあるだろう、病もあるだろうけれども、それをんなら神愛と、例えばそれが、んなら私が3日前のことを、どうして十三日会に私がこんなに苦しまねばならないだろうかと。
そこにはね、神様が私の信心をいよいよ確かのものにして下さろうとするご神意以外になかった。しかもその、なら3日間でもですね、例えば、私がそれこそ這い這いをしてでも、やはり3時半には出らせて頂いたし、4時のご祈念はやはり1時間奉仕させて頂いたね。そこにです、私ども人間生身が、生身を持っておる者の弱さ。例えば、十三日会というような有り難い日に、どうして神様は私を病気になどなさるだろうかと言う様な思いが、そしてそれをそのまま、ただ寝たっきりであったらです、確かに私どもの確信、神を信ずる心というものが緩んでくるんです、不思議にね。
そして体のきつさと、言うならば苦しさでです、先日も申しましたように、苦しい時には、いかに合楽理念が楽しいの、有り難いの、いや愉快ですらあるんだいうことが言われておりましても、あの病気の苦しい時には、有り難いもなからなければ、楽しさもない、愉快もない。しかもそれでもう本当に、どげんして自分が廊下を歩いておるか分からんような風にして、ここに出てくる時には、とても有り難いなんて全然ない。ただ一心にすがるということだけしかない。
だから私どもの生涯の中には、雨もありゃ嵐もありますけれども、その中をですね、すがるという信心に繋いでまいりませんと、せっかくの安心が緩んでくる。安心が破れる。神様の確信が、確信が不確信なことになってくる。それをね維持していくという信心が大事だということを、今日は大体聞いて頂いたですね、朝はですから、その3日間、私が這い這いしてでも、言うならばご神前に額ずかせて頂く。それを有り難くもなからなければ、楽しいことでもないのですけれども。
途中末尾切れ。